ある方からこんなことを言われた。
「最近キミのブログ、本文のこと書き過ぎ!」
 ギクリ。確かに最近、あとがきにひっかけて書きたいことを書くばかりで、肝心のあとがき自体と真剣に向きあってないかもしれない。図星だった。
 そこで改めて、誰もが読んでおもしろいあとがきの条件を考えてみた。
①本文は不滅の価値がある。
②仕事への使命感や熱いパッションが噴出している。
③困難を乗り越えている。
④使命のために、自分のさまざまなものを捧げている。
⑤(④によって)偉業(①)を成し遂げている。

 この5条件をみごとにクリアしているのが、『大漢和辞典』(大修館)の「出版後記」だ。まさにあとがき史上の最高傑作といっていいのではないか。

大漢和辞典 全15巻セット 別巻『語彙索引』付

 筆者は鈴木一平、大漢和を出版した大修館書店の創業者。この「出版後記」は、ネットで全文読むことができる。

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 ぜひ実際に読んでほしいのだけど、とにかくおもしろい。アツい。心あるひとならば、必ず動かされる。
 以下、冒頭の5条件にのっとって、この「出版後記」のよさを説明していきたい。

①本文は不滅の価値がある。

 『大漢和辞典』は漢和辞典の最高峰だ。1925年に大修館書店の鈴木一平に構想され、漢学者の諸橋轍次に依頼されてから、戦争をはさんで、1960年に初版13巻が完結するまで、実に35年の年月をかけた大事業だった。親字数約5万、熟語数約53万。出版当時は世界最大の漢字辞典だった。その後、中国の『漢語大詞典』や台湾の『中文大辞典』などこれに匹敵するものも出てきたけれども、現在でもいまだに大漢和の価値は失われていない。日本人が中国学を学ぶ際の参考文献に必ず大漢和はある。また、文字コードにまで大漢和の影響が及んでいる。

 このように大漢和は、今後も語り継がれる不滅の価値をもっている。

②仕事への使命感や熱いパッションが噴出している。

 大漢和のすごいところは、このような大事業が、君主や国ではなく、民間の一出版社と研究者によってなしとげられたことにある。「出版後記」を見てみよう。

当時(三十八歳)私は「いやしくも出版は天下の公器である、一国文化の水準とその全貌を示す出版物を刊行せねばならぬ。これこそ出版業者の果さ ねばならぬ責務である。」と固く信じ、先ず生命力の永い良い辞書の出版を考えた。

 そう志した鈴木一平は、漢学者の諸橋轍次と一冊ものの漢和辞典を出版する契約を結ぶ。ところが数年後、鈴木は諸橋から、漢和辞典が、当初とは似ても似つかぬ長大なものになりそうだということを告げられる。鈴木は決意した。

今後その辞書が一揃いでも世の中に残る限り、私自身の生命が形を変えて永遠に持続するのだと思うに至り、自らを励まし、私の資力と体力の一切を 注入して、この事業完遂に一生を捧げようと決心した。

③困難を乗り越えている。

 大漢和編集・出版の困難さは、大修館のHPの解説、あるいは大漢和辞典 - Wikipedia

をみてほしい。

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 古今の文献からの語彙集め、出典探し、そして幾度にもわたる校正など、読むだけで気の遠くなる編集作業が、諸橋を中心とした漢学者たちによって行なわれた。

 そして出版側にも、活字という大きな問題があった。大漢和は5万の親字を載せるが、当時活字の漢字は8000字程度しかなかったらしい。ということで、鈴木は活字職人数十名を使い、何十万もの活字を新たに彫る作業から始めなくてはいけなかった。大漢和は、出版史上でも大きな挑戦だったのだ。

 工場を特別に作り、最終原稿を活字に組み置いて原版を作っていくそばから、校正刷りがなされ、補訂されていく。一応刊行できるかたちになったのが1941年。折しも戦時であり、政府から用紙の配給をどうにか獲得して第一巻を出したときは、すでに1943年になっていた。編纂を依頼した1925年には、鈴木38歳、諸橋42歳。第1巻が出たとき、ふたりはもう還暦かそれに届きそうな歳になっていた。

 ところが国の方針による企業合併のあおりを受け、2巻目がなかなか発行できない。そうこうしているうちに戦況は日増しに悪化し、1945年2月、米軍の空襲によって、大修館書店の事務所、特設工場、倉庫、そして大漢和編纂の資料、組み置いていた原版、何十万もの活字の母型はすべて失われてしまった。20年間心血を注いだもののほとんどが失われてしまったのだった。

④使命のために、自分のさまざまなものを捧げている。

 しかし諸橋は、いざというときに備え、全ページ分の校正刷りを3ヶ所に疎開させていた。これが戦後、大漢和を改めて出版するときのもとになる。

 だが、戦争が終結してもなかなか再起のときは訪れない。また1946年に、諸橋はほぼ失明状態におちいる。結局鈴木が出版計画を再始動させるのは、1950年になってしまった。

 このときにあたって鈴木はまたも一大決心をする。自分一代で事業が終わらないことを見越して、子どもたちの人生も大漢和に捧げることにしたのだ。

諸般の出版態勢を整えると共に、私はこの事業の完全なる遂行は私以外にはなしえないが、若し事業半ばに於て死亡し、この出版に支障を来すなら ば、諸橋先生ならびに今日まで御声援を頂いてきた方々に相済まぬという責任を痛感し、本来各方面に進むべく勉学中であった長男敏夫を、当時東京慈恵会医科大学から退学させて経営に参加させ、次男啓介は、旧制第二高等学校を卒業し、東京大学に入学準備中のものを断念させて写真植字を習得、技術を身につけさせ、更に三男荘夫の東京商科大学卒業を待って経理の実務につかせ、私亡き後でも、私の分身が必らずこの事業をなし遂げられるという万全の態勢をとり、父子二代の運命を賭けてやり抜く決意を固め、それを実行した。

 医師や東大へと歩むはずだった息子たちの進路を犠牲にして、一家で大漢和刊行事業のため尽くすことになったのだった。

⑤偉業を成し遂げている。

 このように多大な尽力と犠牲を払い、1955年に第1巻を発行。ちょうどこの歳に諸橋も開眼手術を受け、片目が使えるようになった。そして順調に刊行は進み、最終巻の13巻を1960年に出すことができた。

 昭和三十年文化の日、第一巻を発行してからここに四年余、今日生命に別条もなく、全十三巻を自分の手で完全に成し得て、感激正に無量である。学歴もなく才能も恵まれぬ私に、今日このような機会を与えて下さった諸橋先生及び編纂に関係された諸先生、事務遂行に協力を惜しまなかった関係各位、不断に激励を与えられた先輩諸士に対し、深甚なる謝意を表する。

 この辞典には、約三十五ヶ年間に亘る私の魂が打ち込んである。私存命中に再び版を新たにすることは出来まい。将来補筆出版の必要が生じた際は、 私の子孫が責任をもって、大修館書店の名前のもとに必らず遂行するよう申し置いて行く。この辞典が世の中に一揃いででも残って活用される限り、諸橋先生と共に私の生命が永遠に続くものと確信して、ここに出版後記とする。

  かくして世界最大を誇る漢字辞典の刊行が成し遂げられたのだった。

 

 …ということで、大漢和の威容を眼にすると、いつもこの「編集後記」と、鈴木や、諸橋や、これに関わった人々と年月のことを思ってしまう。このあとがきは、読むものに対して、自分が生きているのはなんのためだろう、ということまで考えさせてしまうおそろしい作品だ。このような理由から、自分は、大漢和の「出版後記」をあとがき史上の最高傑作だと主張したい。